仕事柄、この通りは一日に何往復もします。ただ、ほとんどは荷物を持って歩いているので、通りを見ているつもりでも実際は建物の入口しか見ていない。何番地の次が何番地か、という覚え方をしています。休憩で座ったときだけ、通り全体が目に入ってくる感じがあります。入口の位置は全部言えるのに、その建物が何階建てかは答えられない。八年やっていて、それに気づいたのは最近のことです。

座れる場所が、ほとんどない

この仕事を八年やっていて、いつも思うのは座れる場所の少なさです。歩道は広いのに、腰を下ろせるところがほとんどない。店に入れば座れますが、作業着で十分だけ座るのは気が引けます。結局、決まったベンチにいつも戻ってくることになる。同じ理由で来ている人が何人かいて、時間帯でだいたい顔ぶれが決まっています。話したことはありませんが、いつもの人が来ないと、少し気になったりもします。

街路樹の下のベンチ。昼過ぎは日陰になる

そのベンチで一年ほど前、隣に座ったご年配の方に話しかけられたことがあります。昔この通りにあった映画館の話を、十五分ほど聞きました。名前も聞かないまま別れて、その後は会っていません。ただ、あの十五分があってから、私にとってこの通りは仕事のルートではなくなった気がします。同じ道を通っていても、あの映画館があった場所の前を通るときだけ、少しだけ意識が向くようになりました。

座れる場所がある通りは、通り過ぎるだけの場所じゃなくなる。

通り過ぎる人の数を、もう少し疑ってもいい

人通りが多い通りだと言われますが、その大半は通り過ぎているだけです。私自身がそうでした。にぎわっているという言葉で片づけると、実際に立ち止まっている人が何人いるのかは見えなくなる。立ち止まれる場所がいくつあるかで数えたほうが、この通りの本当のところが分かるように思います。通行量を増やすことと、立ち止まる人を増やすことは、たぶん別の話です。後者のほうが難しいのだと思います。