会社勤めをしていた頃、仕事が終わってから家に帰るまでのあいだに、どこにも寄らずに帰る日が続いた時期がありました。寄りたくないのではなく、寄れる場所がなかった。居酒屋は話す場所だし、チェーンのカフェは八時には閉まってしまう。三十分だけ黙って座りたい人の行き先が、この通りには意外とないと気づいたんです。当時は自分だけの事情だと思っていましたが、店を始めてみたら、同じことを考えていた人がずいぶんいました。
何も起きない一時間のために
だから、店では基本的に話しかけません。注文を受けて、出して、それで終わりです。常連の方でも、こちらから世間話を振ることはしない。冷たいと言われたこともありますが、話したい人は自分から話しはじめるものなので、そのときに応じればいいと思っています。何も起きない一時間を保証することが、この店の仕事だと考えています。看板に営業時間しか書いていないのも同じ理由です。何を売る店かを説明しすぎると、来る人が構えてしまうので。
席は五つで、全部が壁を向いています。向かい合わせにすると、どうしても人の目が気になってしまう。壁を向いて座ってもらうと、みなさん驚くほど長くいてくださいます。設計の相談をした知人には反対されましたが、開けてみたら、この配置がいちばん正しかった。滞在時間は平均で一時間十分くらいです。本を持ち込む方が半分、何もせずに座っている方が半分。何もしない時間のために外へ出てくる人は、思っていたより多いようです。
静かにしていられる場所が、駅から歩ける範囲に一つはあってほしい。
遅い時間に歩く人の景色
夜十時を過ぎると、広小路通の歩道はまだ明るいのに、人がすっといなくなります。あの時間帯の通りが好きで、看板を消してから少し外に立っていることがあります。昼間は自動車と人の音でいっぱいの通りが、急に建物の輪郭だけになる。この時間に開いている店がもう二軒くらい増えたら、通りの表情はかなり変わると思っています。一軒だけだと、そこを目指して来るしかない。二軒あれば、歩いて選ぶことができるようになります。